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​『真夜中のフラヌール』/音・光で演出された空間

 高校3年生の夏、私はフラヌールとなった。当時、受験勉強に疲れ、その拘束からの束の間の解放、心のゆとりを欲するようになっていた。そして、私にとってそれらを満たしてくれるのが夜の散歩であった。深夜12時を回った頃、イヤホンで音楽を

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流しながら、人前では憚られるようなださい恰好で家を出る。ほとんどと言っていいほど人に出会わない為、身なりに気を使う必要もないからである。いつものコース、お気に入りにコースなどは存在しない。その日その時の気分で歩む道を選択する。その際、勉強の事や学校であった悩み事などは頭の中からシャットアウトする。好きな音楽を聴きながら辛いことは何も考えずに自分のペースで誰もいない道を歩くのである。大学生となった今でも真夜中の散歩は頻繁にするのだが、当時は無になっているような感覚を覚えるこの時間が何よりも好きだった。

  一年半眞壁ゼミで学んだ今、無になって何も考えず感じずという風に思っていた散歩を振り返ってみると、この散歩からは正に自己と世界との接面が見いだせると感じた。自分以外は誰もいない世界で自分の好きな音楽を独り占めする感覚、これは電車の音や周囲の人の会話など雑音越しに音楽を聴いている際には味わえない感覚である。また、普段耳を澄まさないと聞こえないような虫の鳴き声、自分の足が地面を蹴る音、風で草木がなびく音などが音楽越しにでも聞こえてくる。視覚的な情報もそうだ。自分以外の人間を全く見ないというのは、まるで自分しか人間は存在していないという漫画の世界線に飛び込んだ感覚である。これを記述している最中でも、フラヌールとして様々な感覚が研ぎ澄まされてたのを再認識した。このような現実的な世界(自分の脳内に創造された疑似的な世界?)と自分の体が、上記のような聴覚や視覚、他の五感を通して一体化する感覚は一度経験すると忘れることが出来ない。この経験を通して、それまで以上にあらゆることに対する想像力や俯瞰的な視点を備えた自己、新たな自分に近づけたと思う。自分を世界の中心と見立て、感覚を研ぎ澄ませながら今まで注目しなかったモノに気を配る。普段ならなかなか人前で前に出ていけない私も真夜中の散歩中には主人公になることが出来る。自己形成が行われた後に具体的にどのように自己が変化したかはこの文章を書いている現在でも正直分からない。ただフラヌールとなったこの経験が自己に変化を与えたことは確かであるし、新たな自分の可能性を見出させてくれたものである。
​ 普段何気なく見ている景色、使用しているモノたちを、時間帯や見る角度、異なる感情を持って見つめ直すことは、
きっと今までにはなかった色や印象を持って私たちの世界に影響を与えてくれるはずである。

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