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​仏像

 中学・高校が仏教教育をしている学校であったため、週に一度講堂に集まって法話を聴いたり、読経する朝礼があった。当時は「他の学校にはないのに、なんで毎週 授業外でこんな時間を過ごさないといけないんだろう」とネガティブな印象を抱いていた。

 ただ当時を振り返ると、学校でありながら仏像が置かれ、厳かな講堂で過ごした時間は強く印象に残っている。おしゃべりや咳ばらいをすることも慎まれる場で仏教ならではの考え方をかみ砕き、内省する良い機会となっていたと思う。

 例えば当時私は何かと周囲と比較しては落ち込み、またそんな自分に嫌気がさすことが度々あった。そのような際に仏教ならではの「慈悲」にまつわる話を聞いた。慈悲とは与楽抜苦と言い換えられ、相手に楽(安

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らぎ)を与えて苦しみを取り除く思いやりを意味する。

 自分に照らし合わせて考えてみると、このような相手を認め共感する思いやりが足りないからこそ必要以上の自己嫌悪に陥っているのではないかとハッとさせられた。 法話が響く厳かな空間の中で心の内を見透かされた気分になった私は、自分の意識を変えていくしかないと気持ちが咳き立てられた。相手に思いやりを持ちよく理解しようと努めて接すると、次第に他者を尊重する気持ちを多く持てるようになり、周囲を気にして悩むことも少なくなっていった。仏教による客観的な視点を取り入れたことで、当時無自覚ではあったが自分らしさが再考されていったのだろう。中学・高校時代に宗教的に飾られた空間で法話を聴き、自分の内面を見つめた経験は今でも行動する上で指針となる考え方を形成してくれたと思う。

 宗教やその考え方に親しみを感じないという人も少なくないだろう。しかし映画を観たり、お散歩をしたり、文章を書いてみたり、身近な趣味にも自分の考えや感情を見つめる瞬間はいくつもある。生活を彩るふとした一場面にこそ、自分の指針とする考え方や世界の見方が変わるきっかけとなった出来事があるのかもしれない。

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