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本のある空間

 本を読むのは嫌いではない。昔から私と本の距離感とはそういうものだった。なにも幼少期の読書環境が充実していたとか、本の虫であったわけでもない。むしろ私の育った家々には、およそ文学や学術書が整然と並ぶ本棚などなく、あったとしても一昔前の漫画やアルバム、小物類などの雑然とした保管場所として機能しており、別段興味の惹かれるものではなかった。むしろ、教育熱心な家庭でもなければ、ファーストインプレッションとしては一般的な話ではないだろうか。そこは知への探究も啓迪もなく、文学に招かれる甘美さもなく、ある意味、私を取り巻く大人たちのアイロニカルな鏡であり、当時の私にとって本のある空間とはそのような価値認識の下にあった。

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 当然、私はその影響を受けて育った。幼少期の娯楽といえば本ではなくゲームで、そこから媒介された何かを感受したでもなく、只々消費しては飽きの繰り返しだった。それを見かねてかある時、少々厳格が過ぎる養父に、ゲームで遊んだらその倍の時間読書をするようにと定められた。逆らえば拳が飛んでくるので、渋々本を読むことになった。といっても彼や周囲の大人たちは私の規範として機能しておらず、またそもそも、私は前述の一時期を除き、家庭内で特定の方向づけをめざすような教育というものを受けてこなかった。そして無論、読書が習慣づくこともなかった。今思えば、幼少期の私はやや特殊な環境からの影響もあってか、相当に手を焼く厄介なガキであった。私の保護者たちは放任主義であったというよりは、この生き物の育て方がわからなかったのだろうと同情さえする。
 しかしこのような経験を通じてさえ、本が嫌いになることはなかった。そもそも言い方に違和感がある。本は本であり、経年劣化はさておくとしても自立的に変化するものではな い。変わるとすればそれは本に対する私の印象であり、その印象も本へのベクトルではなく本を取り巻く人間関係や空間への評価と隣接している。改めて考えてみると、本という概念そのものに対する私の関心は一貫していた。なぜ私は本の周囲に生起する印象に、本への趣が影響され難い人間なのか。それ自体は一義的に捉えきれないのでここでは追及できない。たまたま読んだ本が琴線に触れることが多かったとか、案外単純な理由からかもしれない。

 こうした経緯から察せられるかもしれないが、二十数年生きてきた中で最も本に触れている時期は間違いなく現在、大学生活中であろう。しかもその多くは授業に関連する書籍であり、娯楽の一つとして読書をするようになったのはここ最近のことだ。

 一時の嗜好が表れることへの忌避やレイアウトの問題から本棚を廃棄して以降、読了後の本はダンボールへ、積読や読みかけの本はデスク周りに山積している。今の私が本に、読書空間に対して抱いている印象がここに表出しているのかは定かではない。しかしどうにもその相補的な意味づけのありようは移ろいでいるようである。網膜に映っていても見えず、鼓膜を振わせていても聴こえなかった世界は、たしかに変わらぬ物質性を通じて、ふと、雨音が聴こえるようになったとか、そうした偶然を装いながら、形を変えて私の目の前に現れるのだろう。

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