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お守り

 私は中学受験を経験しており幼いころから塾通いに勤しんでいた。塾で授業を受けること自体は楽しんでおり、成績の善し悪しに左右されずお気楽に過ごしていたように思う。

 しかし、親の心子知らずは世の常であり、親は子どもに反比例するかのように受験への重圧を感じていたようだ。親は太宰府天満宮をはじめとした様々な神社仏閣をお参りし、絵馬を書いていた。そして学業成就のお守りを買い、私の通学用の鞄や財布、筆箱などに結び付け、私の自室にある学習机の周囲にもおけるだけおいていた(小学 5 年生の夏休みの家族旅行は京都・奈良の史跡巡りで受験知識の確認と合格祈願を目的としていた。まあ、幼い私はそんな親の目的は知って

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か知らずか無視しまたまたお気楽に旅行を楽しんでいた記憶がある)。

 上記のように「受験社会」の影響を大いに受けて育った私にとって、「お守り」とは合格という成功に向けて努力を強いるモノであった。また、親が子どもの能力を超えた何かを望み神仏に頼っている象徴でもあった。それ故に、あまり「お守り」を好きになることができず、 熱心に買いに行く親を冷ややかな目で眺め、常に受動的に「お守り」を身に着けていた。
 

 話は変わるが、現在の私の趣味の一つが神社仏閣巡りである。自分で運転して様々な場所に赴き満足するまで見て回る。御朱印を集めることもしなければ、当然の如くお守りを買うこともなく、ただ見て回る。境内にある資料館・宝物館のチケットを買ってただただ見て回る(書いていて我ながら暗い趣味を持っているなと感心した)。大学生になっても幼少期からの「お守り」への忌避観は拭えていなかったのである。

 そんな私が、先日長野の諏訪大社に訪れた際、ふとお守りを買いたくなった。二週間後に大切な試験が控えており、無意識のうちに影響され普段選択しないような行動にでてしまったというのはもちろん理由として考えられる。

 しかし、そんな状況でもお守りを買おうなどという発想は私には浮かばないはずである。 私は大人を「自由な人間」だと考えており、ここでいう「自由」とは責任が取れることである。無秩序に振る舞うのではなく、自らの行動に責任を持つことができる「人間」こそが大人であると考えるのである。これは自らのとる「行動」への意識が強いと言い換えることもできるだろう。そんな私が責任を放棄し神仏に頼る象徴である「お守り」を買おうと考えるのは異常とも言える思考であった。

 しかし、家に帰って机の前に買ってきた学業成就のお守りを飾った時に今までとは異なっ た見え方がした。「お守り」は確かに神仏に頼るという意味は持っているだろう。しかし、 同時に自らの内面にある意志や感情といった、無形であり不安定であるが故にふと気を抜いてしまうと忘れてしまうようなものに、「お守り」という形を与え目に見えて確認することができるようにする意味も持っているだろう。そして「お守り」が飾られた空間は、そのような内面にある意志や感情にある種見守られた場であり、内面に押しとどめられていたモノが放出・発散している空間と言えるだろう。つまり、「お守り」は単に親による努力を強いるモノであり、神仏に能力以上の結果を望むためのモノではなく、努力する原動力となる意志や感情に形を与え、それを神仏のみならず自己から放出した意志が形を持ったが故に自己自身に見守らせるためのモノであると認識を変える契機となったのである。

 この経験は今になって再度振り返ると、ただ受動的にしか触れてこなかった幼少期の私にとっての「お守り」が、成長したことによって自らの意志を認識することができ「自己」を絶えず問うことができるようになった現在の私だからこそ能動的に「お守り」に関わることができ、モノの見え方を捉え直すことができたのであろう。

 

 以上のような経験は、卑近な例で言うと、幼少期にピーマンが苦くて食べられなかった人 が成長するにつれて食べられるようになっていくことに近いだろう。もちろん、これは、幼少期は苦いものを毒だと認識し身体が無意識的に拒否してしまうが、成長するにつれて毒ではないと判断し拒否しなくなるといったもので、いわば生物学的変化に過ぎないものである。上記の私の経験は生物学的変化ではなく、「ピーマン」とは異なる次元にあることは当然である。私の経験は精神的変化によるものであり、「成長」や「発達」といった視点では捉えることのできない「陶冶」による認識の変化であると言える。しかし、「ピーマン」 の例も、ただの生物学的変化として終わらせるのではなく、何故ピーマンへの認識を改めたのか、認識する主体がどのような変遷を遂げたのかを「反省」するのであれば、十分陶冶の経験を振り返る際の象徴として捉えることができるだろう。

 他にも小さい頃の見え方と現在の見え方が異なるモノはあるのではないだろうか。親に勉強のために買い与えられていた筆記用具、お人形遊びで使った人形、小さいころは何も考えず聞いていた音楽、ただ盲目的に通っていた学校などなど。人の辿ってきた経験によって該当するモノは千差万別であり、そこに「自己」が顕れているとも言えるだろう。

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